広島城は
その美しい姿と豊かな歴史的背景を持つ観光スポットですが、同時に、明治時代以降、日清戦争から第二次世界大戦終結まで、軍都広島の中枢を担う重要な拠点であったという側面も忘れてはなりません。
同時に、明治時代以降、日清戦争から第二次世界大戦終結まで、軍都広島の中枢を担う重要な拠点(大本営)であったという側面も忘れてはなりません。ただ、この事実に関しては広島市民の相当数でさえも知られていないようです。
歴史
築城: 1589年(天正17年)、安土桃山時代の武将である毛利輝元によって築城が開始されました。太田川のデルタ地帯に位置し、瀬戸内海の交通の要所となるこの地が選ばれました。築城には、豊臣秀吉の重臣である黒田孝高(官兵衛)が助言したと伝えられています。
歴史的背景
-毛利氏から福島氏、そして浅野氏へ
戦国時代の終わり、五大老の一人である毛利輝元によって築城が開始されました。瀬戸内海の交通の要衝であり、デルタ地帯に位置するこの地は、新たな政治・経済の中心地として発展するポテンシャルを秘めていました。
その後、関ヶ原の戦いを経て福島正則が入城し、大規模な改修を行いました。さらに時代が下り、浅野氏が広島藩主となると、約250年にわたり広島城は藩の中心として栄えました。



-軍都広島の中枢 - 戦争の影 明治維新後、広島は軍事的に重要な拠点と位置づけられ、広島城内には大日本帝国陸軍の第五師団司令部が置かれました。これは、日清戦争(1894-1895年)の際に、大本営が一時的に広島城内に移されたことからも、その重要性が伺えます。明治天皇も行幸し、広島城はまさに日本の戦争遂行の中心地となりました。 その後も、広島城は陸軍の施設として使用され続け、多くの兵士が出征していきました。城内には、軍関係の施設や建物が建てられ、その様相は大きく変化しました。市民生活においても、軍の存在は大きな影響力を持っていました。 -原爆による破壊と、軍都の終焉 しかし、1945年8月6日の原子爆弾投下により、広島城は他の多くの建物と同様に壊滅的な被害を受けました。第五師団司令部をはじめとする軍事施設も 相次ぐ空爆の結果の末、軍都としての役割は終焉を迎えることとなりました。 平和への願い - 歴史を未来へ繋ぐ 現在再建された広島城は、かつての軍事的な役割を静かに語りながら、平和の尊さを訪れる人々に伝えています。天守閣の博物館では、広島城の歴史だけでなく、広島の近代史における軍都としての側面にも触れる展示が行われています。 見どころ 復元天守: 内部は広島の歴史や文化を紹介する博物館となっています。最上階は展望室になっており、広島市内を一望できます。甲冑の試着体験などもできます。 二の丸: 復元された表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓を見学できます。櫓の内部は展示スペースとして公開されています。 本丸跡: 現在は広場となっており、旧天守閣の礎石が残されています。 石垣: 福島正則時代に築かれたとされる石垣には、「刻印」と呼ばれる様々なマークが刻まれています。 被爆樹木: 原爆の熱線に耐え残ったユーカリの木が、平和へのメッセージを伝えています。 広島城址展示館: 広島城の歴史や構造について学べる展示施設です。 鎮魂のモニュメント: 原爆で犠牲になった広島城ゆかりの人々を慰霊するモニュメントがあります。 広島城は 単に美しい歴史的な観光地としてだけでなく、日本の近代史における重要な出来事、そして平和への願いを象徴する場所としても、深く心に刻まれるはずです。観光の際には、この歴史的な背景も踏まえながら、広島城を訪れてみてください。

2025年5月10日(追記)
広島城の天守閣は2026年3月22日をもって閉場することが決定しています。
これは、天守閣の老朽化が進み、耐震性の問題があるためです。現在の天守閣は、1958年に鉄筋コンクリート造で再建されたものですが、建築基準法の改正などにより、現在の耐震基準を満たしていないとされています。
ただし、閉場するのは天守閣の展示施設であり、広島城の敷地全体が立ち入り禁止になるわけではありません。 復元された二の丸や櫓などは、引き続き見学することができます。天守閣内の展示品は、2027年3月にオープン予定の三の丸歴史館に移設される予定です。
広島市では、将来的な天守閣の木造復元も検討されていますが、具体的な計画や時期はまだ決定していません。